入り口の扉を開けるとすぐに階段が下にのびていて、あたしはなるほどねと呟いた。
そして降りた先にまたドアがあった、今度こそ分厚い扉だ。
重たいレバーハンドルをバコンと下げる。
店内は想像以上に広かった。
話ではライブ・セッションのできる飲み屋だと聞いていたけど、どちらかとライブハウス寄りの構造だ。
おそらくライブハウスだったところを改装したのであろうと、店内の至るところから窺い知れた。
「演奏もできる飲み屋というよりは、食事と椅子とテーブルがあるライブハウスという感じだな」
「そやな」
二人共この店の第一印象はあたしと然程変わらないものだったようだ。
もう少し飲み屋らしい内装だと思っていたので少々面食らってしまった。
「ここで演奏したら予行練習になるんと違います?」
「縁起でもないこと言わないでよ。あたしは嫌だからね」
こんなところでいきなりライブをするだなんてあたしはゴメンだ。
何度も言うけど、本来ならあたしの演奏は人様に聴かせるレベルのものではないから。
今更だけどライブの件だってできることなら白紙に戻したいくらいだ。
きょろきょろと店内を見渡していると、落ち着いた男性の声が後ろからした。
振り返ると壮年の男性がそこには立っていた。
「いらっしゃい。珠洲城さん紹介のガールズバンドというのは君たちだね?」
「えぇ、そうどす。無理聞いてくらっておおきに」
玖我とあたしは少しぎこちなくお辞儀をした。
白髪交じりで背の高い男性はノブと名乗った。
「今夜、何か一つでも君達の為になることがあればいいな」
「こないな素敵なお店に招いてもろたんどす、これだけでも十分うちらのためになる経験どす」
さすがは藤乃。
この手のやり取りに慣れている。
あたしが言ったら嫌味に聞こえかねないような歯が浮くような台詞をさらりと言ってのけた。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。あ、羽目を外して飲み過ぎないようにね」
「いや、私達は」
「そうどすなぁ。今日は皆さんのセッションが目的やさかい、程々にしときます」
待て待て待て。
藤乃は今なんて言った。
というかこのノブさんという人もかなり際どい発言をしたような…。
途中で口を挟みそびれた玖我は呆れた表情で藤乃を見つめていた。
「あそこのテーブルが君たちの席だからね。注文の際はそこのカウンターで受け付けるから好きなものを頼むといい」
「そうどすか、おおきに」
「あぁ、お金の心配はしなくていいよ」
「へ?」
「言っただろう?好きなものを頼むといい。今日はごちそうするよ」
「でも」
「ええんどすか?」
「もちろん。君たちは余計な心配はせずにセッションに集中してね」
「お言葉に甘えさしてもらいます。ほんまおおきに」
それを聞いてノブさんはにこっと少年のように微笑んでカウンターの向こうに消えていった。
あたしと玖我はその後姿にお礼を言う。
しかし、またしても何かを言いそびれた玖我はバツが悪そうな顔をしている。
「静留、今のは」
「ご厚意に甘えるいうのもときには大事どすえ」
「そそ。下手に断ったら逆に失礼だって」
あたし達はそんな会話をしながら狭い通路を歩いて席に向かった。
ご丁寧に椅子の隣にギタースタンドが置かれている。
そこはステージからかなり近い席で、間近で演奏を観たかったあたし達にとっては特等席だ。
ノブさんの粋な図らいに改めて心の中でお礼を言う。
玖我と藤乃はそれぞれ楽器をスタンドに立てかけてから席についた。
「至れり尽くせりね」
「あぁ…私はこういうのは性に合わないというか、なんだか申し訳ないな」
「楽しまんとノブさんに失礼どすえ」
藤乃は楽しそうにメニューを見ながらそう言った。
店内には耳にしたことのある洋楽パンクが少し大きめに流れている。
なんてバンドだったっけと考えていると藤乃はあたしにメニューを寄越した。
「あぁ、じゃあこれ」
「なつきは?」
「私は、えっと…」
「ほら、遠慮せんと」
「うぅ…じゃあ、これで」
それを聞くと藤乃は注文のためカウンターに向かった。
玖我は居心地が悪いそうに未だにきょろきょろしている。
人に甘える事になれてないのだろう、あたしも人のことあまり言えたもんじゃないけど。
藤乃が戻ってまもなく、店内の照明が落ちてそれとともにBGMがフェードアウトしていった。
「お、始まるのか」
「じゃない?」
ステージには4人の男性がいた。
年齢はまちまち、30~50代くらいに見える。
何かを簡単に打ち合わせるとそれぞれの持ち場についた。
ベースが音を出すとそれにギターとドラムが続く。
始まったのはブルースだった。
こってこてのこれでもかって程のブルース。
普段そちら方面の楽曲をあまり聴かないあたしにでもわかる程度には分かりやすい曲だった。
「こないに普段聴かんジャンルの曲聴けるのもこういう場所の利点やね」
「あぁ。あのギターのおじさん、すごい上手い」
「ドラムのお兄さんもすごいって。簡単なリズムしか叩いてないのに上手なのが分かるもん」
あたし達はそれぞれのパートの演奏に釘付けになった。
正直ここに来るまでかなり面倒だった(主に玖我のせいで)けど、
今は心の底から来てよかったと思えた。
その後も演奏者が入れ替わり色んなジャンルの生演奏を間近で体験することができた。
近くの家族連れの席から「ママ、がんばってね!」と声が聞こえた時には驚いたけど。
その数分後、あたしと玖我はあんぐりと口を開けながらその”ママ”の歌声を聴いた。
R&Bと呼ばれるジャンルの曲であろう。
耳にしたことのあるその曲のタイトルを思い出そうとしていると見かねた藤乃が声をかけてきて
「情熱、どすえ」
「あぁ…!スッキリしたわ、サンキュ」
なんて会話をした。これはいわゆるアレよ、AHA体験ってやつ。
そして今、時計を見ると九時前。寮の門限はとっくに過ぎている。
ま、今日は外出許可を貰って来たから問題はない。
時が経つのが早過ぎると思ったけど、最初に頼んだ料理も追加で頼んだ飲み物も、
ノブさんが持ってきてくれたデザートすらも平らげてしまったことを考えると妥当な時間かもしれない。
途中、休憩するかのように誰もステージに上がらない時間もあった。
それでもしばらくすると誰かが連れ立って楽器を持ち、足りないパートの有志を募り、演奏が始まる。
演奏してもしなくてもどちらでもいいというこの自由な雰囲気、あたしは嫌いじゃない。むしろ好きだ。
店内の時間は終止和やかに流れていたと思う。
また、藤乃はあんなことを言っていたけどお酒には手を出していなかった。
ノブさんの冗談に調子を合わせたのだろう。
ホントに食えない女だと思いつつも、内心ほっとした。
こいつら酒癖悪そうだから。
ずっと見ていてわかったことは、セッションにはいくつか形があるということ。
原曲を崩してアドリブ主体で演奏することもあれば、そのまま原曲のままコピーとして演奏していることもあった。
後者だったら参加しやすそうだなーなんて考えてしまうのは早計だろうか。
あと半年くらい続けたらそれなりに様になるのだろうかとかそんなことを考える。
ステージを見ると演奏者達が何かを話し合っていた。
次にやる曲の打ち合わせだろう。
あのハットを被った男性はドラムの人だ。
とても丁寧に叩く人で、また彼の演奏を聴けるのかと思うと心が躍った。
「やぁ、楽しんでいるかい?」
「ノブさん!」
「えぇ、そらもう。それもこれもノブはんのおかげどす」
「そうかい?そう言ってもらえると嬉しいよ。ところで君たち、アブリルラヴィーンは知ってるかい?」
「え、えぇ」
「あたしも知ってる。有名な曲だけだけど」
「なつきはCD持ってはるやろ?」
「あぁ。シングルは買ってないが、アルバムは全部買っている」
「そうかい!それはよかった!」
ノブさんは嬉しそうにそう言った。
もしかしたらノブさんもアブリルが好きで、同志を見つけて嬉しかったのかもしれない。
無邪気に喜ぶその笑顔からは人懐っこさが溢れていた。
「君たちのバンド、ボーカルは…?」
そんなこと言いながらきょろきょろとするノブさんと目が合って心臓が飛び跳ねた。
ふざけないでよ、誰がボーカルなんて。と思ったけど無理もない。
玖我と藤乃の隣にはスタンドに立てかけられた楽器が鎮座している。
「いえ、あたしはドラム、です」
「あぁ、そっちかー」
「うちら3ピースバンドやさかい。ボーカルはギターの彼女、なつきが担当しとります」
そう言って藤乃は玖我を紹介した。
するとノブさんはますます嬉しそうな顔をした。
なつきがボーカルでアブリルが好きだとノブさんが嬉しい?
どういうことよ。
「おーい!ボーカル見つけたぞー!」
「「「は?」」」
あたし達は3人で綺麗にハモった。
ノブさんはステージに向けて手を振っている。
ま、いっか。あたしが歌う訳じゃないし。
玖我の肩を叩きながらノブさんは続けた。
「あいつらアブリルがやりたいらしくてさ。今日は女性ボーカルが少なかったから助かったよ」
「え、いや、私は歌うとは、一言も」
玖我が青い顔をしてカタコトになっている。
面白い、動画撮っておこうかしら。
「そ、それに、ほら、女性ボーカルならさっきの、そこの席の」
玖我振り返った席には既に違う客が座っていた。
そう、あの”ママ”はとっくに帰ってしまっている。
あたしの席からはその一部始終が見えていた。
面白いことになってきたわね。
「玖我。あんた散々言ってたじゃない」
「何がだ!歌いたいなんて一言も」
「タダ飯食らうの、申し訳ないんでしょ?」
「うっ……確かに、言ったが……」
「そやったら断る理由がどこにあらはるの」
「いや、だが」
なつきは助けを求めるようにあたしを見た。
だからひらひらと手を振ってやった。
玖我の視線が「この薄情者!」と言っている。
ふん、薄情者で結構よ。
「あ、あの、私、ボーカルなんて」
「いつもやってるんだよね?大丈夫、セッションなんだから気楽にやろう」
「いつもやっていると言っても、まだ人前で演奏したことも歌ったこともないので…」
玖我はおずおずとノブさんにそう告げた。
するとノブさんはさらに嬉しそうにしたから、あたしは吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
「そうなのかい!?じゃあ今日が初めてなんだね!僕もベースで参加するからよろしくね!」
「え、えっと……」
玖我は最後の救いを求めるように藤乃を見た。
確かに藤乃ならこの状況をひっくり返せるかもしれない。
というよりそんなことが出来るのは藤乃くらいしかいない。
「なつき」
「静留……!」
藤乃の声色が変わった。きっと二人きりでいるときの声のトーンだ。
だってなんとなく雰囲気が甘くなったもの。
しかし藤乃は笑顔のまま玖我にこう言った。
「気張りよし」
「な……!」
上げて落とすだなんて酷い。
差し伸べられた救いの手によって地獄に叩き付けられる気分はきっと最低だろう。
肩を落としながらステージに連行される玖我に、少しだけ同情した。