静なつ奈緒。
奈緒視点です。
なんとも不思議な一日だった。
正確には大学の授業が終わってからの半日か。
デートがしたいだなんて言われて身構えていたのに、肩透かしを食らった気分だった。
街をぶらついて適当な映画を観て食事をして。
もちろん、藤乃は宣言通り交際費を全て負担した。
最近まともに会話してなかったけど、藤乃は至って記憶の中のままだった。
どんなにあたしがカマをかけても、普通なら不愉快になるようなことを言ってものらりくらりと上手く躱す。
この一点だけを見ると、あたしは藤乃を気に入っていた。
気兼ねなく言いたいことを言えるから。でもそれもあくまで過去のことだ。
だってそうじゃない、余計なことを言って玖我とのことを感付かれても面倒だもの。
「奈緒はん、今晩の予定は」
「帰って寝る」
素っ気なくそう返すと藤乃は楽しそうに控えめに笑った。
何がおかしい。
あたしは前を見据えたまま憤った。
視界の奥、点滅する歩行者用信号が見える。
「そやったらそれ、うちもご一緒してええどすか?」
「は?」
藤乃は意味ありげに歩みを止めた。
それを無視するように数歩歩いてみてもついてくることはなかった。
根負けしたあたしは振り返って藤乃の視線の先を辿る。
そこはホテル街だった。
「…あんた、何考えてんのよ」
「さぁ、なんやろな。知りたいんやったらついてきはったらええやん」
「馬鹿言わないで」
「ちょお話したいことがあるんよ。あかん?」
藤乃の目は真剣そのものだった。
話したいことがある?
だからさっきカフェで言ったじゃない、言いたいことがあるなら言えって。
いよいよ以って玖我の話だと判断し、あたしは嫌々ながらその誘いに乗った。
「手短かにね」
「善処しますさかい」
まさか今日がこんな重大な話をする日になるとは思わなかった。
だけどいつかは覚悟しなければならない。
本当にあいつを手に入れたいなら。
元よりあたしには逃げるなんて選択肢は残されていない。
それはあたしとあいつが関係を持った、ちょうど一年前の夏から。
たまたまXデーがいつかなんて知らなくて、たまたまそれが今日だったってだけ。
決心するようにため息をついて、あたしは藤乃の後ろを歩いた。
辿り着いた場所は利用したことのないホテルの一室だった。
見たところ結構しそうだったけど代金は全部こいつ持ちだったから別にどうでもいい。
こいつとあとどれだけ過ごさなければいけないのか、それだけが気がかりだった。
「二時間?」
「何がどす?」
「ここ」
必要最低限の単語を口にすると、藤乃はすぐに察したようでくすくすと笑った。
そしてそのまま椅子に座る。なんでもない動作だというのにそれは洗練されていた。
その無駄に綺麗な仕草に、全てを見透かされたような錯覚を覚えてあたしは少し苛立った。
だけどそんなものは藤乃の発言により、彼方へ吹っ飛んでいってしまう。
「時間でいうと何時間なんやろねぇ。十ニ時間くらいやろか」
「……は?」
「ちょおわかりやすく言うと一晩、やね」
「……」
ハメられた。
言い終わるや否や藤乃はもう一段階深く微笑んだように見えたけど、
それはあたしにとって初めて目の当たりにする笑顔だった。
その表情には色気が多分に含まれていたから。
「帰る」
鞄を引っ掴んで踵を返す。
一刻も早くここから出ないといけない。
あたしの防衛本能がそう告げていた。
しかし不意に何かに体を包まれてあたしは動けなくなった。
原因は一つしか考えられない。
藤乃に後ろから抱き締められているんだ。
「離して」
「嫌どす」
「ふざけてんの?」
「ふざけてるように聞こえるんどすか」
藤乃によって紡がれた言葉が息となってあたしの耳を掠めていく。
意思とは反して僅かに体が反応して、あたしは心底自分の体に嫌気が差した。
「……あんた、自分が何言ってんのかわかってんの?」
「うちには奈緒はんの質問の意味が分からへんね」
「は?」
「なつきのこと、言わはりたいんやろ?」
「そうよ、わかってるんじゃない」
「でもそれはうちの事情やろ。奈緒はんには関係あらへん」
「……」
言われて気付いた。
確かに、藤乃の事情なんてどうでもいい。
あたしが嫌だから、という形で拒絶すべきだった。
こんな時に、玖我のことを気遣うような言い回し、すべきじゃなかった。
これじゃまるで…。
「うちとするの、奈緒はんはまんざらでも無い言うことどすか?嬉しおす」
「ば、馬鹿なこと言わないでよ!もちろんあたしだって」
「ちょお待ち」
「……何よ」
「触れちゃあかん理由は一個だけにしとくれやす。そないにぎょーさん挙げるもんやない。うち傷付くわ」
「なぁにが」
「堪忍な。でもうち、あんたに興味湧いてもうたんどす。そやから……」
藤乃の表情は、”程々に切羽詰まっている”と表現するのが適切だろうか。
後ろから抱き締められて顔が真横にある状態なものだからまともには読み切れない。
藤乃があたしと玖我とのことに気付いているかどうかは別として、
こいつが言ってることに噓はなさそうだ。
ただなんとなく裏はある気がする。
その”火遊びとして真剣な表情”はどこかで見覚えがある。
そうだ、玖我とそっくりなんだ。
こんなことあたししか知らないんだろうけど、腹立たしいったらありゃしない。
藤乃が相手じゃなければ「そっちの気はないから」と言ってあしらってしまえたのに。
こいつはきっと、以前からあたしが玖我のことを特別な目で見ていたことに気付いていたはず。
実際、そっちの気はないつもりなんだけど、それにしてもそんな話の流れで
玖我の名前を出されたとしたら、上手く躱せる自信はなかった。
「ちょ、どこ触ってんのよ」
「どこ触ってるか、実況されるのが趣味なん?ええ趣味してはりますな」
「そっ……!」
そういう意味で言った訳じゃないと言う言葉はなんとか飲み込んだ。
そのまま答えてしまえば、また藤乃のペースに持っていかれるから。
服の中に侵入しようとしている手を掴みながら口を開いた。
「っつかアンタ、話があるんでしょ?」
「はい?」
「は、はい?じゃないわよ、あたしはあんたの話を聞く為についてきたんだから」
「……いま話してることがうちの『言いたいこと』やけど」
「え……」
「なんや、他に心当たりでもあらはるん?」
やぶ蛇だった。
自分でも本当に馬鹿だと思う。
こういう流れになったなら、ホテルに入る前のそれは誘い文句だったと解釈すべきだろう。
それを、何?あんたの話を聞く為についてきたから早く話せ?
人間追いつめられると駄目ね、どんどん馬鹿になる。
「奈緒はん?」
「心当たりなんてないわよ。ただ、裏切られた気分になっただけ」
「堪忍な……」
あえて裏切るという言葉を使ってみた。
玖我とのことを知っていたとしたら、あたしに言われてこれほどムカつく言葉はないと思ったから。
しかし、そうして探りを入れてみても藤乃は申し訳なさそうに謝るばかりであたしは拍子抜けしてしまった。
「……」
藤乃も人の子だ。
魔が差すことだってあるだろう。
玖我一筋だった藤乃がこうなってしまった原因はあたしにはわからない。
でももうこれ以上余計なことは言いたくないし、藤乃に目をつけられた段階であたしに勝ち目はない気がする。
あたしと藤乃がした、だなんて。
玖我が知ったらどんな顔をするだろう。
どんな展開になるだろう。
現状を打開するカードと成り得るだろうか。
そんな打算が頭の中を駆け巡るけど、結局はこの場をどう切り抜けるべきか
考えるのが億劫になっただけだと思う。
あたしは、藤乃の左耳に触れるだけのキスをする。
数歩歩けば辿りつけるはずのドアが、やけに遠く感じた。